自分はスペッキオという変な名前の猫を飼っている。
この猫から学んだことというか気づかされたことがあるので、今日はその気付きを大切に再認識するために文章を書こうと思う。
【好きなことをして、嫌いなことはしない】
スぺさんが教えてくれたことはたくさんあるけど、一番身に染みた学びはコレだと思う。
好きなことをして、嫌いなことはしない。
「猫は忖度がない」という表現を自分はよく使うんだけど、本当にそう思う。
好きなことをして嫌いなことしないだなんて、単純過ぎて馬鹿らしく感じるかもしれない、自分もよく思う。
でも、人間は本当に馬鹿な生き物でこんな簡単なことがびっくりするくらい出来ていない。
馬鹿な人間の中でさらに輪にかけた馬鹿である自分にはマジで難しいことだ。
正確には、スぺさんと一緒に暮らすようになるまで、難しいとか苦手だ、とか気づくことすら出来なかった。
「嫌な仕事だけど、生きる為に続けよう・・・」
「本当はコレやりたいけど、いくつも障害あるしやめよう・・・」
「人付き合い面倒くさいけど、人としてちゃんとしなきゃ・・・」
だっせえ考えだけど、自分みたいな四角四面で自由の感じにくい人間はあるあるだと思う。
猫はこんな風にださくない、自由でいて優雅だ。
・嫌いな人間が近づいてきたら当たり前のように距離をとる
・好きな場所に好きなだけいる
・嫌いなご飯は食べない
・好きな時に遊ぶ、好きな時に眠る
こんな当たり前のことを当たり前に自然にこなす猫は本当に自由で自分に正直だ。
スペさんも例外じゃなくて、好きな時に好きなことを好きなだけする。
スぺさんが言葉にして飼い主である自分に伝えてくれた訳じゃないけど、その自由な姿から学ばせてもらっている。
誰しも人間なら嫌いな人がいると思う、職場とか学校とかプライベートでも。
自分にも勿論嫌いな人がいる。
人を嫌うこと自体当たり前で自然なことなんだけど、自分の場合付き合い方がアホだった。
なんとか相手に嫌われないようにしよう、だとか、相手の良いところを探そう、だったり、人を嫌うのは悪いことだ、とか下らない考えのもとだらだら関係を探ろうとしていた。
当然だけど、疲れた。
そしてそんな相手から好かれる訳もなかったし、好きになることもなかった。
スぺさんはこんなことしない。
きっとスぺなら「距離をとり、なるべく接しない」。視界にも入れないだろう。
そりゃそうだよなって感じ、汚いものは見たくないし臭いものは嗅ぎたくない、ストレッサーから距離をとって離れることの何がおかしい、自然そのもじゃないか。
ゴミ箱に顔突っ込んで嫌だ臭い、と喚いている人間の自分は猫からしたらだいぶ理解しがたいだろう。
飽きたらすぐやめて次の何かを求める素直さも猫から見習いたい。
人間は一つのことをやり抜くことをとても大切にしている、自分ももちろんそう思う。
でもちょっとばかり美徳にし過ぎじゃないか?と思うようにもなった。
仕事でも趣味でも勉強でも、なんでも、「飽きる」とか「辞める」という行為が犯罪のような感覚で人間の世にのさばっているのが腹が立つ。
飽き性はダメ人間のレッテル貼られて、途中で辞める人間は意志が弱い不適合者みたいな感じ。
誰が敷いたレールか知らないけど、自分も油断するとすぐそんな風に思う。
それが自分にとって正常な感覚だった、スぺと一緒に暮らすまでは。
新しいオモチャの遊びにソッコーで飽きて部屋から一切の躊躇なく出ていくスぺさんを見ていると、ガチャガチャぐちゃぐちゃレッテル貼りに疲弊している自分が馬鹿らしく感じ、そんで肩がすげえ軽くなる。
飽きてもいいから好きなことやればいいんだ、とスぺさんの背中から強烈に学びを感じた。
おかげで昔から憧れていた楽器を趣味にできた。
新しいジャンルの本やゲームに手を出すことに抵抗がなくなった。
子供のころからずっと興味のあった物書きにも挑戦できた、だから今文章書いてるし。
まだまだスぺさんから教えてもらったことはある。
けど、とりあえずここら辺で一旦やめてこう。
スぺさんの顔や正面からの姿は綺麗だけど、後ろ姿が一番好きだ。
忖度や媚のない一切迷いのない、振り返ることのない後ろ姿は本当に美しくて、いつか自分もかくありたいと割とマジで思う。